第U章
Messenger by yoshi .w
| Magazine 出演魚。 | 熟女魚 |
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| 疑似鈎詐欺師。 | Koriyama City Fukushima Japan Yoshi .w | |
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日本国内も高度成長期に入り、日毎に生活環境が向上していった。東北本線から上京する出稼ぎ、集団就職も毎年見られたのもこの頃だった。誰もが身に染み込んだ好みの色。「裏と表の人生模様」。長い人生経験から生れるアダルトな色彩を川面に託して、熟女魚と疑似鈎詐欺師との駆け引きをドキュメントタッチで綴ります。 本流に生き抜くスレッカラシ尺上山女魚をゲットするには、真っ当な贈り物では不可能だと貴方は悟るに違いない。 この物語りは全てフィクションです。 |
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| 第二章。 | 高校時代。不適切交遊と成田闘争。 | ||||||||
![]() 番長班。勢揃い。 ![]() 右翼活動者の彼は 45歳で永久に眠る。 ![]() 同居者 |
1960年代 高校入学。 渡 芳樹は、日大東北付属高校に無事入学した。 と言うより、各地の落ちこぼれが寄り集まったような者ばかりいたような気がする。その証拠に、入学式当日からガン(目)つけたの、ガクラン(学生服)のボタンを外しているとかでケンカが始まった。各グループは、水郡線利用の南部派。東北本線の主流派グループ。そして磐越西線にも東線にも不良グループが番長を張っていたのである。 中学出たばかりの私には、とてもおっかねェ学校だと思いましたよ。 私の仲間は3人しか居なかったので、このままでは奴らの配下にされてしまう。しかし、私らには強力な助っ人が存在した。悪友の一人は奥州○○一家の息子。もう一人は、兄貴が右翼の筆頭をしていたからだ。「やられたら、ただじゃ置かない!」脅かされる度に、私らはこの言葉を武器にした。 やがて、二年生になった春。私らのグループは、既に二十数名の規模となっていた。番長は、テキヤの元締めを親に持つ佐久間○弥だった。そんな時、隣りの安積○業高校の番長グループと、ひょんな事から張り合う事になってしまったのだ。原因は、女学生の奪い合いから始まった。私らの高校は男子校だったのに対して、安積○業は共学だった。学校帰りは、阿武隈川の土手で女を待つのが日課でしたよ。友達が友達を誘うから、芋ズル式に皆が股友達になって行く。この頃は、毎日が楽しかったネェ〜。 これらの噂が学内に広まると、面白くないのが安積○業の番長達だった。運悪くと言うか、本当は知っててヤッたのだが、番長の女をコロガシてしまったのである。面子が潰された落とし前は、一人3万円として12万円請求。廻した犯人は4人だったからである。しかし、彼女自身が既に私らの仲間に入っていたから、そんな脅しは相手にしないで知らん振り。ところが私と仲間数人の時、奴らは木刀やチェーンを片手に10人掛りで襲って来やがった。この時の、殺気は凄かった。私は恐ろしくて、仲間をほっぽり出して自転車に飛び乗り一人猛然と逃げました。 次の日、登校と同時に校長室に呼び出されました。お前が一番悪いと二時間も説教されて、その日から謹慎。数日後、親父が呼ばれて一週間の停学処分になったのです。これが停学一回目となりました。襲われた仲間はどうしたかって、木刀で凸凹にされてしまいましたが、騒ぎを聞きつけた先生達に取り押さえられたそうです。私は、後でしっかりオゴラらされました。 これは内緒の話ですが、私はこの17歳の時代アパートから学校に通学していたので、家にはろくに帰らなかったのです。だから、親父には手酷く怒られましたです。頭に来た私は、店の金をくすめて再び我が家に帰宅。そこで待っていたのは、好きな女の子が二人。二人とも家出同然だったから、時には親達に踏み込まれて、二階の窓から裏の田んぼに飛び降りて逃げた事があったっけ。とにかく、頭ごなしの説教は嫌いなので、危険を察知すると素早く逃げるんです。 釣り師開眼。 一番の仲良しは、瓦屋の五十嵐○雄君と土建屋の玉津○良。もう一人は、気取り屋の二階堂君だった。五十嵐の家には、猟銃が合ったのでよくハト撃ちに出掛けました。私の家にもテキヤ連中が出入りしていたので、以前から猟銃はもとよりライフル。日本刀まで隠してあった。射撃は、中学からの得意技でした。 ある日、天栄村の羽鳥湖にバイクで釣りをしに行く事になった。その内免許を持っていたのは、バイク通学の一人だけ。私は当然持ってなかったので、借り物のバイクで無免許でした。 登校する振りをして、釣行団は一路釣り場に向う。釣り竿は、何処から持ってきたのか三間のグラスロッド。エサとなるミミズを付けて、学校サボりの釣り大会。全く釣れなかった帰り際、私の竿に突然大物が掛かったからさぁ〜大変。どうにも寄って来ない相手は、大鯉だった。グラスロッドは伸されっぱなしで取り込みができずに格闘していたら、行き成りプッツン。敢え無くハリスから切れてしまいした。この時の興奮は、今の歳になっても忘れられない思い出になりました。 この日の出来事が忘れられなくなったのは、大物を逃したからではアリマセン。私達が捕りモノに出合ってしまったんです。遠征帰りの国道4号線、そこで待ち構えていたのは一斉取締りの警察だったのです。それに気付いた私は、又してもUターンして逃走。もちろん、サイレンを鳴らされて追い掛けられました。こっちは二人乗りだが、メグロの250ccバイク。当時としては、大型のバイクだったのでパトカーより早かった。上手く逃げられたと思いきや、仲間は免許を持っていたから逃げなかった。これが命取りとなりあっさり御用となりました。これで、二回目の停学処分が下されました。 同棲時代。 二度の停学も乗り越えて、高校生活も3年生の終盤を迎えていました。 この頃の私は、相変わらずアパートから通勤。いや通学していましたので、親も見離していたように思います。その資金はどうしたかって!大丈夫です!私の仲間達には、商店や農家の息子が結構居ましたので、米倉から供出してくれたのです。 親のいない間に、商店の仲間は車を出して米を運んで精米所に売りに行く仕掛けです。授業料も使い込みましたから、何とか生活を支えてました。女の子3人共、皆んな仲良く頑張ってました。楽しかった高校生活も残り僅かになってきた頃、学生運動が激しくなり新聞紙上を賑わしていた。折りしも成田では、空港反対闘争が活発になってきた時期だったと思う。 助っ人 誰かが言った。成田で、警察と大学生が乱闘騒ぎをしているから見に行こうと提案した。私も、つい面白そうだと、旅行気分でその話に乗ってしまったのです。学校をサボりながら、東京見物。そしてとうとう成田に入り込んでしまいました。 とある農家の庭先で、公団の回し者と農民が激しく罵り合っていた。最初は遠巻きで見ていたものの、だんだんその集団に紛れ込んでしまった。私らの格好は、登山靴にヘルメット。其処には何故か「倒幕」と書いてありましたネグラを持たない私らは、農家の人に炊き出しを戴きました。 次の日、睨みあう公団とパトカーに対して、突っ込みが始まった。へっぴり腰の私達だったが、手にはしっかりと竹棒を握り締めていた。乱闘を目の前で見ていると、慣れてくるもので御座います。一宿一飯の恩義を返さずには義理が廃る。何て調子好き。東映映画の見過ぎだと思うが、騒ぎに乗じてパトカーの赤色灯を叩き割って勝ち鬨を上げた。それもつかの間、一時間と経たない内に全員逮捕と相成りました。 これが三回目の停学だったのです。因みに、3回目は退学処分が相当だったのですが、敬虔なキリスト教徒の担任の影山先生が助けてくれたのです。つづく!!! 余談ですが、その後全学連会長だった藤本○○氏が、学生運動終了後に提案した「川と土を守る会」フレンズ オブ リバーに私も協賛した事は何かの縁だったかも知れません。先生にも、散々お世話になって置きながらご無沙汰していましたが、TV番組を見て私の所に家族皆で遊びに来てくれました。手の付けられなかった男が、こんなに変貌するなんて人の悟りはいつでもできるのですと! これで、ようやく無罪放免となりました。
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![]() 釣りも好き。 ![]() 高校j時代幼妻。 ![]() ツッパリ時代。この中の 一人が抗争で射殺された。 ![]() 闘争とケンカを 間違えました。 ![]() 成田空港一番機。 海外ツアーでは お世話になってます。 |